7月16日(金曜日)

Guppy   2004年7月16日   7月16日(金曜日) はコメントを受け付けていません

天気「今日もまた朝からずっと曇り空」

一昨日はキーボードでショパンのノクターンの右手だけ練習した。何年ぶりかで譜面がまあまあ読めるようになって良かった。ちなみに何故右手だけ練習したかと言えば、両手では弾けないほど、ミニで鍵盤の数が少ないからである。本当にフル鍵盤のピアノが欲しいけれど、今は子供にお金が出て行く年頃だし、買えたとしても賃貸住宅だからヘッドフォンがいるし、バブルの頃に建った建物だからちゃちでピアノ置いたら床抜けそうだから今は無理。我慢の子、我慢の子。

今日も4時起きであるが、今日のはいつもとちと違う。昨夜早速パパに後片付けしてもらい、する事が無いので8時には寝てしまったのである。だから8時間寝たわけで、これ以上寝たら目が腐っちゃう。だから早朝覚醒でも何でもないの。

今日はお風呂に入らなくちゃ。明日は通院日。雨が降らなきゃ良いけれど…。

2週間ぶりにシャワーを浴びた。髪の毛は1週間前に洗ったのだけどね。垢がいっぱい出た。髪の毛は2度洗いした。あんまりベタベタしているから。体重は66.5キロだった。横向きになったらウエストが無くてお腹だけがポコンと出ている。これは帝王切開の時の傷跡だ。

個人の産婦人科だったので、長らく帝王切開をしていなかったのだろう。夫が、腰痛がひどいのになかなか陣痛が微弱でレントゲンばかり撮るから、頼み込んでやっと近所の外科医をゴルフ場から呼び寄せて帝王切開になったのだけど、手術方法が古くて縦に腹筋ごと切ったのだ。だからここの肉は産後取れなくてそのままカチンカチンに固まっている。大阪の病院で手術を受ける前にエコー検査したのだけど、その時「いったい何時産んだの?」と笑われるくらい古い方法らしい。今は横に小さめに切って、何度帝王切開しても古い傷口を中に入れて縫合するから、傷口は常に1個らしい。パパがいつも言う。「どうりで自然分娩にしたがったはずだ」と。もう笑い話だ。

今朝はお腹が空き過ぎて動けなかった。ここのところ、ほとんど食べていないからだ。パパは「少な目にして3度3度ご飯を食べていたら、そんな事にはならないのに…」と言う。今の状態は身体が栄養失調になっていて、それで何を食べても吸収するから体重が増えるのだと。パパの仰せで、朝、子供がインスタントラーメンを作ってくれた。涙涙。やっと動ける様になった。でもお昼ご飯を作るのは億劫で食べていない。一応晩ご飯は食べる事にして2合といだが、私はご飯が残るのが嫌なのだ。結局私が食べる事になるからだ。折角減らした体重も元に戻るではないか。ここまで減らすのにどれだけ苦労した事か。もうダイエットはご免だぁい。

7月15日(木曜日)

Guppy   2004年7月15日   7月15日(木曜日) はコメントを受け付けていません

天気「今日もまた蒸し暑くなり曇り空」

昨夜8時には夕食食べ終わって寝てしまった。丑年だからかな。パパがそうっと起こさずに寝たら、私は夜中の3時半まで寝てしまった。洗い物はそのまま。夜中に洗い物するのは近所迷惑だから止めてくれと言われたばかり。だから明け方の5時まで待って、大急ぎで洗いお米をといだ。何とか朝の6時には無事炊き終えて間に合った。こんな思いはたくさんなので、パパに苦情を言ったところ、パパが後片付けと翌朝の用意をしてくれる事に決まった。助かった。私は朝ご飯を用意する事と夕飯を作るだけになった。これも上手くいくか心配だけど…、何とかなるっしょ。

でも寝る前のお薬飲みそびれた。一日の大半の薬が入っているので、捨てるわけにもいかず、10時からのいつものドラマを見たら、飲んで寝る事にする。その前に晩のお米をといでおかないと…。だって、パパが帰って来たら早速クーラーのスイッチ入れるから、それまでに炊き上がらないとブレーカーが落ちてしまいかねないから…。ウチは子供のパソコンと合わせると常時4台のパソコンが動いているから大変なのだ。パパはアップルとウィンドウズ、子供はウィンドウズとサーバーをフル稼働させるのだ。おまけに子供はノート型パソコンまで使う事が多い。これに2つのクーラーが点くわけだから、思いっきし地球温暖化に寄与している。まずいかな。

7月13日(火曜日)

Guppy   2004年7月13日   7月13日(火曜日) はコメントを受け付けていません

天気「今日もまた一日雨かおつなもの」

今日も4時間で起きてしまった。夜はとにかく眠剤でやっと寝ているのだろう。でも昼間も時々4時間近ーく寝てしまうのは何故?。身体が睡眠時間を覚えているのだろうか。不思議な事だ。

ところで最近は主治医の指導で漫画を読んでいたが、老眼の様にピントが合わず読みにくいの何のって、集中力が無いので飛ばし読みしている。「家栽の人」という本だが、主人公は家庭裁判所の裁判官で自然や栽培が大好きな人で、家裁に送られて来る少年達を花や木にたとえながら判決を下して行くと言うお話である。別に面白くはないのだが、家族にかまいすぎで衝突が起き、「それではいけない」と主治医に言われたからである。

私にとって子供は発病した時の中学2年のままなのである。でも現実にはもう大学生になっている年である。ただ高専なのでけじめがつかなくて、今もかまってしまう。夫にいつも諭されている。自分の時の事を考えてごらんと。私は兄と違ってまるで放っておかれた存在だった。それだけに自由を満喫したっけ。学校の帰りが9時になってもご飯が残っていただけで、一人淋しくご飯を食べていた。

兄は家の女共にかまわれて、無理して入った県内有数の進学校で落ちこぼれ扱いされて、毎日友達を連れて来ては麻雀三昧だった。勿論煙草は吸い放題。一度父がいさめたら、義祖母(母の養母)と母とで寄ってたかって兄を弁護し、結果、家でなら吸い放題になったのだ。よそで吸われて火事になったら大変だからと言うのが、その理由である。おかしな家だったと思う。父の方が正しかったと今になって思う様になった。

弟は父の次に母が追い出された中学生の時から笑わなくなった。そして学校では毎日呼び出し放送が有って、説教を受けていたらしい。小一の時からのスパルタ塾のお陰で、成績は悪くなく、楽々に兄が担任に反対されても母がごり押しして受けさせた高校に受かった。そして兄が落ちた国立大に見事落ち、一年予備校に通いながら、高校時代に溜め込んでいた進○ゼミの添削課題を送り続けて、とうとう合格した。

私達の人生は、母の亡くなった実父が校長をしていた高校に進学し、父の出身校だったここ地元の国立大学へ行くのが決まりだった。中学で落ちこぼれた私は、女の子だったという事で公立高校ならどこでも良くて、最終的には地元で一番程度の高い短期大学へ進めば良かった。でも誰もその先の道は造られていなかった。だから弟は就職しようにもどうしたら良いかわからなかった。義祖母に頼まれて私が弟と話し合いする事になった。そしてやってみたかったログビルダーになった。簡単に言えばログハウスを造る大工さんである。そうそう仕事が有るわけでなし、結局はカナダでの修行が終わってから、普通の大工さんのお手伝いをしていた。何の為に大学を出たか意味が無いという事だ。大工になりたかったら、変なプライドが出来る前の高卒で修行に入るべきだったんだ。結果、結婚した今では止めてしまい、小さな建築会社の営業をやっている。こっちの方が大学出た意味も有り、また性にも合っているらしい。ここまで来るのに10年も回り道したのだ。

私の感覚も上記に書いた通りである。だから理性では子供には好きな道へ行かせてやりたいと言いながら、感情では子供が今の学校へ行っているのを認めるのに3年もかかってしまった。染み付いた垢はなかなかとれないものだ。再来年卒業したら、その上の大学へ編入学する事に決まっている。その大学も、私の感覚では滑り止めで受ける私大で、志望校に落ちた者が行くところと思い込んでいた。最近になって、やっと地元の国立の工学部には無い学部が有って、その為に行くのだと納得出来た。でもまだ就職がある。子供の望んでいる仕事は県内には無いらしい。当然都会に住む事になるだろう。満員電車にも慣れないといけない。その為に来月、関東の実際の会社へ実習に行くらしい。寮生活だ。交通費以外自腹とのこと。コンピューターはお手の物だが、適度に怠ける事を早速先輩から教わって来る始末。おいおい、君は「フォレスト・ガンプ」を忘れたか。真面目にやってくれよ~。でも真面目にやっていたら私みたいな病気になるかもしれないし、難しいところだ。うーむ。

7月12日(月曜日)

Guppy   2004年7月12日   7月12日(月曜日) はコメントを受け付けていません

天気「朝曇りこれから雨が降るのかな」

昨日、義祖母の事を思い出したせいか、急に見舞いに行きたくなった。パパは「今日は掃除して後はゆっくりしようと思っていたのに…」とブツブツ言いながらも、車で連れて行ってくれた。その老人ホームがどこにあるのかわからなくて、道を3回も間違えた。どれも山へ行く道で、私は「まるで姥捨て山だなあ」と言った。やっと見つけてお部屋へ会いに行くと、義祖母はまるで仏様の様に顔が穏やかになっていた。明治45年生まれだから、もうとうに90才は越しているだろう。私の事など忘れているかと思ったが、覚えていた。母には忙しく仕事をさせて、代わりに私達兄弟を育ててくれた人だ。やっぱり忘れないのだろうか。

私は兄夫婦と夫との板挟みになって発病し、逃げる様に今のウチへ越してきた。義祖母が毎日しつこく押しかけて来ていたので、それがもう嫌で当時黙って引っ越した。すると同じく私の実家の近所に住んでいたパパの末弟に、しつこく住所を尋ね末弟から迷惑しているとのクレームが入ったので、仕方なく住所も新しい電話番号も教えた。それから3回はタクシーでウチに来ただろうか。部屋がわからなくて、表で「○○ちゃ~ん」と大声で叫ぶのが嫌だった。タクシーで来るのはさすがに大変だった様で、次からは電話が毎日の様にかかって来た。私はその度に症状を悪化させ、でも私が電話口に出るまでかかって来るので、断る夫に悪いと思い、無理をして電話に出ては震えていた。義祖母はこのウチに来た事を覚えていた。あれから5年以上経つというのに…。

「また来るね」と指切りげんまんしてきた。でも今度はいつ行けるだろう。あんまり頻繁に行くと、また兄夫婦に勘ぐられそうだし、義祖母も私も疲れる。かと言って、行く日を決め様にも私の体調がその時にならないとわからないので決められない。結局今度はいつになるかわからないなぁ。義祖母にとってホームにいる方が、あの家に住んでいるより幸せなのかもしれないと思った。じゃなきゃ、あんな風にまるで別人の様に顔が変わるわけがない。私は自分が歳をとった時の事を考えた。子供の世話になろうと思っていたが、ホームに入るのも悪くないのかもしれないと…。あんな風に仏様の様な顔になれるのなら…。

7月11日(日曜日)

Guppy   2004年7月11日   7月11日(日曜日) はコメントを受け付けていません

天気「暴風雨警報解除今曇り」

昨日はキチ○イみたいにヘッドフォンで音楽を大音量でループさせながら、掲示板巡りをしていた。途中で「私ってキチ○イみたい」と思った。こんな事が半日も出来るなんて普通の人には無理だろう。私達兄弟はいびつな家庭で育った。兄は受験ノイローゼになったし、弟は学校で暴れていたらしいから。

私は父が追い出されてから、父のしてきた事がやっとわかる様になった。結婚してからではあるが…。兄の滑り止めの学校に入学金を入れなかったのは、ひたすら兄に浪人してでも地元の国立大へ入って欲しかったからだろう。何故かと言うと、弟が一浪して地元の国立大に入ったと危篤前に聞いた時、満足げに「ウン、ウン」と頷いていたからだ。

また父が家賃集金のお金をくすねていたのは、夫曰く、小遣いがあたらなかったからだろうとの事。確かに、公務員を辞めさせられてからは毎日ブラブラしていて、私はそんな父が嫌でしょうがなかった。もし公務員をずっと続けさせてもらっていたら、父は小遣いに不自由しなかっただろうし、従ってくすねる必要もなかっただろう。私達はずっと悪人だと思っていた。今までの私は、私が母から聞かされた「お父さんはいつか追い出されるだろうと言っていた」との言葉から、きっとその時の為に貯蓄していたのだろうと考えていた。でもその考えはパパの言葉で払拭された。そんな悪人か計画性が有ったなら、もっと巧妙にやって、すぐばれる様なヘマはしなかっただろうと…。気が弱っちいだけの平凡な人だったと思うよとの事。そうだよね。

私は幼い時、父の吸う煙草の煙が大好きだった。でもいつの間にか父は止めさせられていて、小学生の時にはもう吸う事はなかった。今でも懐かしい香りである。父はあの家を追い出されて幸せだったと思う。好きな様に生きられたから。私には父が麻雀していた事も麻雀友達がいた事も信じられない事だった。これは父の死後、住んでいたアパートを片付けしていた時に麻雀の結果の入ったフロッピーを見つけてわかった事なんだが、父が麻雀をしていた事に衝撃を受けた。父は私達が考えていた様な人物ではなかったのである。これには今でもビックリである。私の生家に居た時は、さぞかし肩身の狭い思いしてきたのだろうな。私も今では付き合う事も無く、自由にさせてもらっている。私のこれまでの人生で一番、楽をさせてもらっている。感謝しないといけないね。

そう言えば、先週の病院通いの時に、ご老人が手押し車を脇に置いていたのを見て、夢を思い出した。豪華な手押し車を、実家の養祖母(母の養母)に贈る夢を見たと夫に言うと、「会いたくないか」と聞かれた。私は「別に…。もう私の事なんか忘れているだろう」と答えた。老人ホームで、きっともう寝たきりになっているだろう。今の私には自分の事だけで精一杯なのだ。もうそんなお義理の付き合いはしたくはない。養祖母の事は養子になった兄夫婦が看ればいいのだ。養子になって良い思いばかりではない事を思い知ればいい。