天気「昔なら稲妻鳴れば雪が降り」
昨日はいつもの病院デーだった。ここへ引っ越す時に「子供も高校進学する事だし、家計が苦しくなるので共働きするから」と言って、パパに頼んだ事をすっかり忘れていた。今になって、ここ2年昇給無しのボーナスカットが身にしみて (会社が存続しているだけマシか)、先月お医者さんが言っていた障害年金2級の申請をしてみる事にした。これを受けると老後の年金が減るんだけれど、背に腹は変えられぬ、です。万が一、公立を落ちたら、とたんに食えなくなるもの。申請の為に病名を聞いた。治療にかかってから1年半という条件も、病気の条件も満たしているから、後は年金の払った年数 (免除期間込み) が2/3以上であればOKのはずなんだけど、この12年間しか「サラリーマンの奥さん」じゃなかったから受理されるかどうか、不安です。だってぇ、その前は免除申請していたか(・_・?)ワカンナイモン。でもそんな事より、ショックが大きかったのは病名の方でした。私のかかっているお医者さんは、あまり薬の名前や病名を言わない方針なのです。特にこの病気の場合、似た症状からの誤診も多いし、すぐ不安に陥る病気なので、聞いても曖昧な表現しか返ってきません。今度は、申請書類をもらって来るにあたって、仕方なく教えてくれたみたい。それで以前教えてもらった「心因の気分障害」が、正確には「躁うつ病 (軽躁とうつ=『両極・型』) ~非定型精神病 (ヒステリー性)」という事が判ったのです。ショックを受けたのは、後の非定型精神病の方。これは想像もしていなかったから…。だけど、そう言われれば思い当たる節が有る。私は小学校の4~5年の頃から癇癪持ちで、よく祖母に竹物差で叩かれたり、両親 (特に母) と大げんかして階段上で互いに突き飛ばしたりしていた。その為に真っ暗な土蔵に閉じ込められたり、真夜中外に放り出されたりは、日常茶飯事だった。その頃から母は、子供の進路について父と養父母との板挟みになり、何度も駆け落ちして逃げ出しては連れ戻されていたっけ。私と同じ事をしていたのだ。でも母は、結局養父母に屈して言われるがままの操り人形となり、父は追い出される日に備えて裏で収入の画策を図る様になった。そして私はと言うと、中学ニ年の秋に以前にも書いた様に母に夢をつぶされ、それ以降全く塾の勉強も学校の授業もどうでもよくなっていた。その年のニ学期の通知簿で、担任から「少々問題あり、改善の必要」というような事を書かれた。その担任は、大学時代に児童心理学を勉強していた事もあって、相談室の顧問だったのだ。私達女子は、掃除の度にそこで担任とよくお喋りしていたから、その時感じたのだと思う。しかし、母はすでに子供に興味は無く、チラッと見ただけで終った。これまで私はその時の担任をずっと恨んでいたが、彼は正しかったのだ。今になって解るなんて…嗚呼、あの時すぐに専門医にかかっていれば、とっくの昔に治っていたのだ。祖母が病んでいた。その祖母 (養母) に育てられた母も病んでいた。父も病んでいた。兄も病んでいた (中三で受験ノイローゼ。やっと入った県でもトップクラスの進学校で落ちこぼれ扱いされ、家族公認でタバコとマージャンの日々を送っていた)。そして、その時すでに私も病んでいたのだ。誰も知らなかっただけで…。何という歪な家庭よ。今の私の願いは、何年かかろうとも病気を治し、母の二の舞いを踏まない事だけ。家庭環境から病むのは私迄で充分、我が子には病んで欲しくないから。