投稿文

<まえがき>
 これらはGuppyが記憶を取り戻すきっかけになったとある掲示板への投稿文です。


2000/6/1「生きる事について」投稿文

 昨夜、掲示板を覗いてタイトルも壁紙も変わっていたので、結局何も書かずに退室しました。まさか、こんな事が起こっていたなんて…変だなとは思っていましたが。今朝は元の掲示板に戻っていたので、正直ホッとしています。私の元気の素ですから。
 私は39才の子持ちです。14年前子供が生まれた時、心密かに?決心していました。この子の為に、命に別状が無い限りは絶対に主人とは離婚しない事を。長い結婚生活の中、色々有りました。新婚1年目にはもう子供の父親になったというのに、主人はブー太郎で、何度も流産しかけた私は、ほとんどの仕事を人に譲ってしまっていて(ピアノ教室をしていた)….。だから当然貯金は食いつぶし、家財道具はほとんど売り払って(商売道具も)。それでもローンの支払いが出来なくなって、夜逃げ同然で彼の実家へ行きました。でも「家にも事情があるから」と言われ、仕方なく大阪城公園横の道路で車中生活を1ヶ月近くしました。公園の水を飲みながら、パンの耳を子供に食べさせながら。そしてやっと、彼はブー太郎生活から足を洗う決心をしてくれたのです。まだ2才の我が子を見て「不憫だ!!」と感じたとの事です。あの時だけは「離婚するべきか、ついてゆくべきか」本当に悩みました。彼からは「俺のことはもう見捨てて、離婚して実家に帰ってくれ」とまで言われましたし…。でも私の実家は、まず父母が離婚して婿養子の父を追い出し、次には亡くなった祖父の姪で2才の時に跡継ぎとして養女にもらわれてきていた母を、祖母(と兄夫婦)との相続争いで裁判まで起こして追い出した家なのです。子供は全て家の道具としてしか扱われませんでした。兄は母に代わる跡継ぎに祖母の養子となり、私は政略結婚の道具でしかありませんでした。時代錯誤もいいとこですね。未成年の時など裁判所に連れて行かれて、他家の養女にされた事もあります。当時まだ保険金詐欺・殺人の言葉も出ていなかった頃、二十歳の健康な独身娘である私に1億円もの保険がかけられた事もありました。本人も知らないうちに、身代わりをたてて。保険会社の調査部の人が調べに来るまで、気付きもしなかった。まさか実の母親が男と連んで…。結局、警察に頼んで、大事には至りませんでしたが。それまでの間、生きた心地がしませんでした。バイトに行く途中、何度も「引き殺されるかもしれない」と後ろを振り向く事すら出来ない恐怖感におそわれた。「仕方がない。そんな境遇に生まれたのだから」と、もう諦めの心境だった。それでも自殺だけは考えませんでした。もし自殺する気なら、とっくに小学生の時にしてたよ!!
 今、私は「気分障害」と言う病気にかかっています。うつ病の分家みたいな神経症です。発病当時は「私さえ居なければ、みんな丸くおさまるんだ。私さえこの世から居なくなれば……」と、半年間薬で寝ながら、ずっとそればかりが頭の中にこびり付いて離れませんでした。でも何故か「自殺する」という事は思いつきもしなかった。多分これまでの人生が、心のずーーーーーーっと奥底でブレーキをかけてくれていたのだと思います。今は生きていて良かったと思っています。何故なら、自殺していたら、子供に一生消えない心の傷を負わせていただろうから。無意識のうちにブレーキをかけていた自分と、日に何度も電話をして声を掛けてくれた主人に感謝しています。
 人生は長いです。山あり谷ありです。でも一つの山を越える度、一つの谷を越える度に人間は強くなれます。私が良い見本です。きっとこの病気が治る頃には、もっと強くなっていると思います。以上。

2000/6/2「生・命を考える」

 「自殺願望」か…私は小学4年の時かな。私の生まれ育った家は田舎ではけっこう旧家で、と言ってもただの農家ですが、江戸時代にはよくお殿様がお立ち寄りになっては御休息あそばしたという家でした。だから戦争が終わって新憲法が出来て、あれから何十年も経つというのに、今も戦前の様な考え方がまかり通る?!___そんな家でした。つまり家の存続の為なら、家族が犠牲になるのもやむを得無し…という事です。さて、私の両親はそんな家へ養子に来た人達です。俗に言う「共養子?」かな。母は祖父の姪で2才の時に跡継ぎとして強引に連れてこられました。祖母にとっては小姑の娘になります。そして母が成人した時、父は高学歴という点を見込まれ婿養子に迎えられました。すぐに待望の長男が生まれ、「跡継ぎ」という事で、それはもう祖父母達に可愛がられました。「やれ泣いた、乳飲ませぃ!」「この子は賢い、学校へ上がる前から数を千まで数えるぞ!」etc…。ところが、次に生まれた長女の私には「いつまで乳やっとる!!早く田圃仕事せんかい!!」と、母はいつも怒られて抱いている暇も与えてはくれなかったそうです。だから、私はいつも離れでただ一人寝転がされていました。泣いても誰も来てはくれません。両親は馬車馬の様に働かされていましたし、祖父母は女の赤ん坊など目もくれませんでした。物心着いたときの最初の記憶が、お腹がすいているのを指シャブリで我慢して、離れの布団の中で(‥)(: )(¨)( :)(‥)))))コロコロ転がりながら、一人空想する事でした。何時間も何時間も、日が暮れて部屋が真っ暗になって母が走って来てくれるまで。そして小学校に上がった頃から、私の「おしん」生活が始まったのです。今の若い人達は、昔NHKの朝の連ドラで放送していたのは知らないでしょうね。(知りたい人は、その辺のオジンかオバンに聞いて下さい。きっと話が盛り上がるから) 私の場合は、毎日学校へ行ってから直ぐに習い事に行って、帰ったら両親の畑仕事の手伝いして夜は家事の手伝い、祖父母が寝た頃になって今度は夜中の1時まで母に出された宿題をする。たいていは子供だから居眠りしていて出来なくて、結局母に叱られて寝る。その繰り返しの日々でした。特に辛かったのは冬です。両親と三人で畑から戻ったら、直ぐに取れたての大根やほうれん草を一人外で、きれいに泥を洗い落とさなければならないからです。しんしんと雪が降る中、氷の様な水で……私の手はあかぎれになっていて、それが痛くて痛くて。でもトロトロしていたら市場への出荷に遅れるから、よく叱られた。そのくせ、習い事の発表会やお弾き初めには、毎年あつらえた着物やワンピースを着せられて「お嬢様」を演じなくてはならなかった。家の外と内とでは、まるで天国と地獄の様な気持ちがした。だから私の「自殺願望」は子供の時なのです。(中略) この小学生の時の「自殺願望」が、私の40年近い人生の中のたった一度の「自殺願望」です。
 私は、これまで3人の天寿を全うした死に様を見てきました。最初は子供の頃、大好きだった叔父さんです。交通事故でした。まだ30代だったと思う。内臓破裂で病院に運ばれ、家族に看取られながら亡くなったその顔は、とても安らかだったそうです。母に聞きました。次は19才の時、祖父が老衰で亡くなりました。79才です。最後の面会では、「あぁ、お迎えの人がそこに来ている。」と言って、その日の深夜息を引き取ったそうです。その顔もまるで眠っている様に安らかだったそうです。最後は父です。20年ぶりに会った父は末期ガンでした。年老いて病気でガリガリになっていたけれど、最期まで看護婦さんに食べさせてもらいながら、一生懸命生きていました。勿論、ガン告知は受けていて本人は長くない事を承知の上で…。私は病気になって最期を看取る事は出来なかったけれど、命の灯が消えるまで一生懸命生き続けた父を誇りに思います。人は、それが偶然の事故であれ、あるいは死の病気であれ、あるいは老衰であれ、天寿に従って死んだ時だけ美しく気高く安らかに死ねるのではないか。私はそう思います。

2000/6/4「気楽に生きよう!(生・命を考える)」投稿文

 えーと…皆さんには非常に申し訳ないのですが、私には自殺願望が有りません。普通は私の病気の場合、うつ病の方々と同じく衝動的に自殺するケースが多いらしいのですが、私の場合、心の奥底に強いブレーキが有るらしく、発病当初も2度目の発作の時も自殺未遂さえ起こしませんでした。おそらく理由は私の生い立ちに有るのだと思います。私の生まれ育った家は田舎の旧家で、「お家存続」を第一に考える…まぁ今年のNHK大河ドラマの様な感じだとお思い下さいませ。男児は非常に大切に育てられます。特に長男は「跡継ぎ」ですから別格の扱いです。次男でも、長男に万が一の時の為の予備軍ですから大事に育てられます。でも女児は後々政略結婚の道具になるので、幼児の頃から毎日何かしら習い事に行かされます。時には1日に2つも掛け持ちする事も有ります。なぁ~んだ、結構な話じゃん____と思われるかもしれませんが、現実はそう甘くはありません。成人するまで用は無いのですから、ただでご飯食べさせるのはもったいないと考えるのが旧家のケチなところです。だから小学校へ上がると、畑仕事と家事手伝いが増やされます。遊ぶ暇など有るもんですか。その上、仕事が終わったら今度は勉強の時間です (いつも居眠りしては叱られていましたが…)。何せ、政略結婚には学歴も必要でしたから。それも専門学校や4年制の大学は以ての外、程良いところで短大まで、と決まっていたのです。勿論、「好きな学校へ進みたい」と言っても許されません。地元以外は、悪い虫がつくので×(笑)。で、夜中の1時になったらやっと寝る許可がもらえるのです。「もう、こんな生活イヤッ!!」と思った小学4年の時に、初めて自殺を考えました。でもやっぱり子供ですね。「どうせ死ぬのなら、苦しくなくて、痛くなくて、しかも綺麗な死に方じゃないと…」(ほら、ドラマや少女漫画みたいな奴ヨ) と、思ったのですから。でも、調べたらそんなの無いんですよね。痛くないのは端から見たら汚いし、綺麗なのは時間がかかって苦しいか痛いかのどっちかだし…。で、死ぬのは諦めました。第一、よく考えたらバカバカしいじゃん!?「何で私が死ななくちゃいけないのよ、あほらしい!! (`へ´)フンッ。私の人生なんだから、私の生き方は私が決める!!」と、その時決心して以来、この30年近く一度も自殺を考えた事はありません。家出は1度しましたが….(笑)。過去にも発病した時と同じ様に、「もうイヤ!!、耐えられない!!、消えてしまいたい!!」と思った事は有りますが、でも自殺なんか考えませ~ん。そんな時は、引っ越ししちゃいます。心機一転やり直しのつもりで____だから、今回発病した時も、やっぱり引っ越ししちゃいました。一から出直しです。そんでもって家は今とっても貧乏です。ほら、よく言うでしょう?「引っ越し貧乏」って。だけどいつも「消えちゃいたい…」と思う時は、決まって実家や親に深く関わり過ぎた時だから、しばらくトンズラして気持ちが落ち着くまで行方不明にしておくんだ。その間、実家や親達は心配するだろうけれど、親より先に死ぬよりよっぽど親孝行な娘だと、自分では思っている。感謝して欲しいくらいだよ、ホント(=∩_∩=)。ま、とにかくこれまでの半生色々あったけど、あれ(小四)以来、「生死は神が決めるものであって人間ごときが決めるものではない」と、固く信じているのが常に心のブレーキになっている様です。おしまい。


<あとがき>
 この後、3ヶ月後の9月に初めて自殺未遂しました。あんなに自分はしないと言っていたのに…。希死念慮の怖さをまだこの頃はわかっていなかった様です。次に自殺未遂をしたのはこの投稿文を書いた4年後でした。この時は、胃洗浄までしてとても危なかったそうです。この日をきっかけに鍵付きの金庫を買ってパパに薬の管理をしてもらう様になりました。その後2011年に祖母が亡くなって、この時も希死念慮が出たのですが、ジプレキサザイディスと言う水無しで溶けるお薬をもらって、それを服用して何とかしのぎました。希死念慮をあなどってはいけません。その症状が出たらすぐにお医者さんに相談して下さい。
                                                  Guppy
  平成28年 3月 2日

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