天気「青天のへきれきかもね連勝は」
今日はとっても気分が良いので (理由は昨日家族麻雀で連戦 o(^-^)o ツモ!!圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃って、しかも生まれて初めて国士無双を出したからなのだ! (^。^/)ウフッ)、日記の背景色を一気にグリーン系に変えてみました。私のラッキーカラーは茶色と緑なので、これからこの色で続けていこうかな。さて先週兄が来た日、子供の受験の話から私の受験の時の話をしかけたら兄は聞いてくれなかったので、すっごーく不完全燃焼でストレスが溜まっちゃったのです (兄が私の事を無視するところは、子供の頃から全然変わってないね! パーンチ o(^_-)O)。だから今日は前の日記の続きを書きます。初めて母に進学したい学校の事をお願いしたのは、小学6年の時でした。小さい頃から母の母校であるミッションスクールの話を聞いてきたせいか、お年頃のせいもあってすごーく憧れていたのです。でも教育ママの母は神童と呼ばれた兄の高校受験で頭がいっぱいで、聞く耳持たずでした。母は私を諦めさせる為に「昔と今とでは学校のレベルが違うから…」と言っていました (兄も先週言った (`ヘ´) フンダ!!!)。事実その通りなのですが、本音はやはり兄の事でいっぱいだったのだと思います。何せ教育ママですから (だから兄は受験ノイローゼになったのだと私は思う _(・・)φボーー )。まぁ3学年違いだから、お勉強の出来る跡継ぎの方に期待をかけるのは、当然と言えば当然でしょうけれど… ( -.-)ノ-=≡≡≡卍卍(シュ)。次に進学希望を願い出たのは中学2年の秋でした。ピアノの先生 (♪定年退職した小学校の時の校長先生だったんだ。この先生、お亡くなりになるまで毎年手作りの年賀状を下さった。素敵でしょ♪) から「武蔵野音大付属高校を受ける気は無いか?」と聞かれ、私は一も二もなく「行きたーい!!」と言った。もう天にも昇る気持ちだった。先生は「とにかく親御さんともご相談しなくてはならないから、一度一緒に来てもらう様に」と言われたので、ある日母と一緒に出かけた。一通り先生からお話があった後に「もし受けさせる気持ちがお有りなら、音大の教授が定期的にこちらへ来てマンツーマンレッスンをしてくれるので紹介しましょう」とまでおっしゃってくれたので、私はo(^ー^)oワクワクしながら母の返事を待った。ところが…、母の口から出た言葉は「家はこの子を職業婦人 (何と古いお言葉 _(.・)/ドテ) にさせる気はありませんので、結構です!!」だった。(・・、)ヾ(^^ )ナクンジャナイヨ。母は常々「私より成績の悪い同級生達が女子大へ進んだのに、自分は養父母の命令で田圃仕事をしなくてはならなくて口惜しかった!!」と言っていたのに、結局自分も我が子の夢を摘み取ったのだ。兄は兄で大学まで親に決められ、私は私で短大の学部まで決められていて (私のチョー苦手な英語科、理由は県内の短大の中で一番レベルが高いからだって。ぎゃははははははは _(__)ノ彡☆ばんばん!) 、バカみたい。だからこの頃の通知簿には「少々問題あり、改善の必要」と書かれていた (担任の専門が児童心理学だったのだ (○`ε´○)プンプン!!)。 でも母は勉強しない私に関心が無くなったのか、気にもとめなかった。ただ田舎のこと故、私立は公立が不合格になった者が行く所だったので「並みの公立に合格さえすれば良い」と考えていたのだと思う。何故かというと、三者面談で親への反発も込めて「夕日が見える高校にする!! (こんな奴いねぇだろうなぁ…)」と私が言ったら、片道1~2時間 (汽車の待ち時間込み) かかるところに本当にそんな公立高校があって、母はすんなりOKを出したから。でも合格してからの3年間は、本当に楽しかったぁー。ブラスバンド部に入って「部活が有るから」と言い、朝の6時半過ぎに家を出てから夜の9時まで家に帰らずにすんだから (^0^*オッホホ。本当は部室でトランプしたりして遊んでいたンだけどね。でもこの3年間は、今でも私の人生の宝です。おしまい。
P.S. 心に溜まっていた言葉を全部吐き出して、やっとスッキリしました。やっぱり溜め込むのは良くないね。最後まで読んでくれた人、どーもアリガト。♪d(⌒o⌒)b♪